※インタビュアー鉄子:以下 鉄子
山﨑 幸二さん:以下 山﨑
〔鉄子〕
山﨑さんがこの業界に入るまでの経緯を教えてください。
〔山﨑〕
16歳でこの業界に入って、もう30年以上経つね。
私は小学生2年生の時から中学までずっと野球をやっていたんです。
野球が続けたくて、高校も野球が強い学校へ進学し、毎日野球のことばかり考えて生活していました。
そんなある日、学校で理由も言わずに、いきなり先生から叱られ殴られ・・
そんな事件がありまして・・・。
(もちろん実際には叱られる原因がありましたが・・笑
それを言わずにいきなりバチバチと殴られ若かった私はそんな理不尽な大人の行動に我慢ができずに反撃!)
その理不尽な大人たちのもとを去る決意をしたのがそう、16歳の時でした。
高校をやめるということは大好きな野球をやめ、働かなければならないということ。
野球がやりたくて入った高校でいきなり、人生の路線を変更することとなってしまいました。
その話を中学の時の野球のコーチにすると。「明日からうちに来い」と言ってくれました。
そのコーチの本業というのが鉄筋屋で、これが今なお続けている鉄筋屋の道に入るきっかけとなりました。
〔鉄子〕
野球を志して入った高校を辞め、社会へ出て・・当時どんなお気持ちでしたか?
〔山﨑〕
この街でこの年齢でと言ったら、土方か鉄筋か。
こういった現場の仕事しかなかったんです。
私を雇ってくれたコーチには今、心から感謝しています。
コーチの一言がなければ、今の私はいませんから。
でも当時の私は決して現場の仕事がしたかったわけではありませんでした。
若かった私は、仕事をしていても「早く帰りたい」ばっかりで(笑)
年齢の近い先輩も少しはいましたが私が一番年下で毎日毎日使われてばっかり。
この仕事がおもしろいという気持ちは、なかなか生まれませんでした。
〔鉄子〕
初めての現場の印象は覚えていますか?
〔山﨑〕
もちろん、初めて現場に行った時のことは今でも覚えています。
夏でした。
半袖Tシャツで行ったらめちゃくちゃ暑くて(笑)
そんな格好でくるやつあるか、何しに来たんや、としょっぱなから怒られましたね。
初めての社会人、それにこの間まで中学生だった私は、右も左も分からない状態でした。
それでも18歳で結婚することになり、家族ができ、お金が必要で、これが当時の私を動かす原動力となっていました。
最初はただ働いていた、働かされていた、という感じでありましたが歳を重ねるごとに任される仕事の幅も増え、職人として、一人前として認められるようになってくると仕事が楽しいと感じられるようになってきました。
少しずつ、この仕事に誇りを持つようにもなってきました。
今ではいろいろな機械がありますが、昔は重機もなく、担いで運ぶ、大変力のいる仕事で毎日ヘットヘト。
「若いのによう続けとるな、頑張っとるな」と褒めてもらった事を今でも覚えているのは当時の私にはその言葉がきっと嬉しかったんでしょう。
私には野球で培った、体力と根性がありました。
そしてプライドもあった。
あと、じっとしているのがキライだった。じっとしているのは寝ている時くらいでしたね。
だから実際はこの仕事が、私にはあっていたのかもしれません。
〔鉄子〕
そのあとは独立まで一直線だったのですか?
〔山﨑〕
いえ!(笑)
21歳の時にレーサーを目指して仙台へ行きました。
鉄筋の仕事をしながらレースの練習。鉄筋屋は、レースを練習するために稼ぐための費用稼ぎでした(笑)
当時を振り返るとまだまだ若いですね、私も。
でも私は要領よく、段取りよく、仕事しながら、好きなことをすることが好きだったのかもしれません。
いや、上を目指すとか頂点に立つ、ということが好きだったのかな・・?
レースは和歌山に戻ってからも続けていました。
〔鉄子〕
独立はおいくつの時にされたのですか?
〔山﨑〕
25歳の時です。
やはり人に使われる仕事はしたくない、どうせやるなら1番を目指したい、という野望を胸に、独立を決意。
最初は不安だけどやるしかなかった。
今では、仕事を自分で取ってきたことなんてありませんでしたし、1つの現場を動かしながら、次の仕事をもらってくるのはなかなか難しかったです。
それでも自分についてきてくれた人たちの生活もかかっているし、自分が仕事を取ってこないと、とただただ必死に動き回りました。
現場の段取りして、職人さんの送り迎えもして、また現場回って、営業もしに行って。
営業は初心者。右も左もわからず飛び込み営業もしました。
仕事を取らないと、というプレッシャーがしんどかったですね。自分にも家族がありましたし。
営業しながら5年くらいは現場にも出ていました。
しんどいながらも、現場では自分の采配で現場の動きが決まる。
その優越感をやっぱり私は楽しんでいました。
職人上がりだったからこそ、細かいことにも対応できました。
とにかくがむしゃらにがんばり続けた数年間でしたね。
〔鉄子〕
現在、仕事において大切にしていることは何ですか?
〔山﨑〕
「段取り8割、仕事2割。要領良く!」
ここで働く皆が安全に働け、皆の仕事が途切れないように、そして充実した毎日を送れるように。
そんな環境を作り出す事を目標としています。
従業員も、協力会社さんも本当に大切な人材です。
皆が事故・怪我してもらっては困ります。そのため安全への取り組みも重要視していますね。
毎年5月には安全大会も開催し、現場で想定される危険に関する危険予知の講習も月1回しています。
KYね。空気読めない活動じゃないよ(笑)
あとは、専属の業者さんにまでしっかり仕事を回していけるよう、仕事を預けるような努力をしています。
皆さんの人生、そして皆さんの家族の将来を、私が背負っているのですから。
〔鉄子〕
先ほど、外でお会いした職人さんがとても笑顔で挨拶してくださいましたが・・?
〔山﨑〕
そうです。安全への取り組みとともに大切にしているのは「挨拶・礼儀」です。
きっちりとした対応。
きっちりとした挨拶。
技術を磨くのは当然のことです。
現場1つをまわすのにもチーム力が必要。この仕事は決して1人ではできない仕事。
だから誰に対しても挨拶しっかり、礼儀正しく。とても大切なことだと思っています。
〔鉄子〕
若い世代の鉄筋人に伝えたいことはありますか?
〔山﨑〕
そうだね、この仕事はええ仕事だと思うよ。心から。
自分が建てたものが " かたち " になるし、奥深い仕事だし。
それに覚えたら覚えるほど、仕事もおもしろくなってくるし。
初めは私も面白くはなかったけれど(笑)
それでも今では楽しくて興味深い仕事だと思っています。
1段階、2段階、3段階、この仕事には何回か段階があってその段階が上がっていくうちにどんどん楽しくなってくる。
そして極めたら・・・
本当に楽しくなるよ。
なぜなら私たちの仕事は、形に残る仕事。
骨組みから作り上げていく、私たちにしかできない仕事。
キタないしキツいけれど、自分たちが作ったものが形になった時、
それは僕らにものすごい達成感を味わわせてくれるんです。
若い子たちは、この仕事が今は楽しくないかもしれない。
もしくは最初から鉄筋の仕事を避けているかもしれない。
それでも、あのビルもこのマンションも、あの高速道路だって
私たちのような鉄筋人が骨組みから実際に形になるまで、作り上げている。
僕らは、この町を作っているんです。
それって、すごく誇らしいことだと思うんです。
和歌山には高層マンションはないし、ビルもない。2〜3階建ての建物がほとんど。
それでもたくさんの建物がある。
あの橋、お父ちゃんが作ったんだよって言える。
あのマンションはお父ちゃんの会社で骨組みをしたんだよって言える。
街を車で走ると、この街の一部を作ってきたことが実感できる。
〔鉄子〕
最後に、山﨑さんの座右の銘を教えてください。
〔山﨑〕
「人生、努力あるのみ」
野球、レース、家族、会社、私の人生は常に努力で溢れてきました。
そして、その「努力」を続けることはとても簡単なことではないことも、同時に実感してきました。
今、私は少年野球の代表をしています。
子供の純粋な姿勢と、地道ん位努力する姿を見ると、私の心もまた、綺麗に洗われます。
いつでも初心に戻って、努力をし続ければ、必ず良い結果に繋がる。
段取りよく働いて、仲間、協力会社さん、お客様、趣味、家族、子供達、そしてこの街をずっと、
大切にしていきたい。その為の努力は今後もやめません。
※今はひたすらゴルフ。
ここでも上を目指しています。(笑)
〔鉄子〕
山﨑さん、本当にありがとうございました。
素敵な笑顔の事務員さんがいらっしゃいました。
お願いしたら快く撮影にご協力いただけました!
山﨑様のレーサー姿が飾ってありましたのでパシャリ★